雑記

ASD当事者(言語優位)の書きなぐり。言葉選びせずに書きなぐる。

活かす教訓、活かしすぎた教訓

私には、10年ほど前、父に言われた

「大切な人の大切なものは大切にしなさい」

という教訓がある。

何故だかその言葉は脳に深く刻まれてしまい、ことある事に判断基準になってしまっている。

 

しかし、教訓を活かしすぎることは失敗に繋がった。

 

結婚と離婚だ。

 

自己肯定感の低い自分。

寄せられた好意を拒むこともできず…

いや、表面的に見えたアノヒトは紳士的であったために、結婚という選択をし、例の書類にハンコを押してしまった。

役所で貰うと茶色、最近はネットで好きなデザインのものを購入できるというあの書類。

 

思い返すと、入籍前からなかなかだったんだよね。

私の抱えたトラウマを治療して欲しい!と言い出して、拒否してもそれを結婚の条件にされてしまって。

私も「結婚」「仕事」「子育て」とかいう、世間の求める成人女性像でいなきゃ!という焦りもあったから、渋々飲んでしまったんだよね。

 

(民間のトラウマ治療のセラピーを受けました)

(セラピーを受ける際には、きちんとしたエビデンスのある療法を選ぶべきだと痛感しています)

(そして、セラピーによるストレスを発散できる環境を整えるべき…)

 

彦摩呂に似たセラピストの元へは定期的に通い続け、事前にセラピストに言われていた

「人生で最も調子の悪い時期」

はすぐに訪れた。

 

それが、アノヒトとの新生活や職場の人事異動と重なり

https://mitorin.hatenadiary.com/entry/2020/11/17/130919

この記事途中へ戻る、と

 

結局、入院中のある日、病棟にやってきた彼に離婚を告げられました。

ずるいよね、暴れても未遂を図っても保護室や鎮静剤のある環境にいるタイミングを選ぶなんてね。

 

で、何でこのことで教訓を活かしすぎたか?ということだけども

 

私は、アノヒトの大切なものを大切にしすぎたのだ。

 

アノヒトの大事なものは家族…いや、母親であった。

家族を大事にしていると勘違いした当時の私は、義理の家族を大事にするアノヒトの態度を大切にしすぎてしまった。

 

そしてアノヒトは私を妻として大切にしようとしたのではなく、精神疾患のある妻を献身的に見守り介護する俺、が大切でもあったんだ。

 

教訓を活かしすぎたゆえ、

見抜くという行動に進めなかった。

 

それが私の失敗。

 

発達障害のある人って、きっと生真面目な特性のある人が多いから、目先の何かを疑うことって難しいんだと想像する。

ましてそれが「夫」であれば尚更。

 

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以下、話がズレます

 

介護というかモラハラだったんだけども

不安で仕方無くてじっとできない時に

「そんなにしんどいならリスカでもしてろ」

って言われたのは忘れられない。

 

その言葉も今でもリフレクションしていて

自傷行為に踏み切るハードルが低くなったままなのよね。

 

人の振り見て我が振り直せ

 

私も言葉には気をつけたい

そんなお話

 

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更に話はズレるけど

離婚までは揉めに揉めた。

 

精神疾患発達障害を抱えた人が法律に関わるトラブルに巻き込まれると本当に大変だから

本当に人生の判断は慎重に。

 

だけど、今私は実家を出たのは正解だと信じてる。

経済的には負担がかかるけど、親のプレッシャーからは解き放たれて、自由なペースで生活できるからね。

 

慎重さと一歩踏み出す勇気、両方のバランスが取れるといいなぁ。

 

そんな私は今、小さな判断に悩んでいる。

運転免許の限定解除をすべきかどうか…

いやー。5万円は大きいよねぇ(笑)

やりたいこととできること

結論、やりたいこととできることは違う。

 

多くの子ども達は小さな頃に「将来の夢」を決めさせられる。

課題だから、夢なんて無くても無理にでも何か決めさせられる。

絵にしたり作文にしたり、させられたよね。

いや、悪いこととは言わないよ。

そういう方法で人生観や職業観を育てることにもなると思うから。

 

そしてまた多くの子ども達は、中学生あるいは高校生、人によってはそれ以降の時期になると、今度こそ本格的に将来の自らの生き方について問われることとなる。

この段階では最早「将来の夢」という表現は適さなくなっており、その時その時の選択が自身の行く先に濃厚に意味を持つようになってくる。

 

平成初期生まれの私たち世代は、生まれてからずっと不況で、いくら有効求人倍率が高くなったと言われても、ブラック企業トラップも仕込まれる時代で。

夢を追いながら生活を成り立たせることも困難な時代でもあって。

女性である私から見る、同世代の進路は

「教員」「学童指導員」「看護師」「薬剤師」「臨床工学技士」「歯科衛生士」

と、手に職つける系な、あえて悪く言うと非常につぶしのきかない職業が多いように思う。

(特に看護師さんになった人がすごく多い気がする)

専門職を選ばなかった人たちも、多くは企業への就職を選択し、夢を追って……という人はものすごく少なかった印象だ。

 

夢を追う、という一見すると非現実的なことを大人は良しとしないし、

自分たちもまた、不況を目の当たりにしてきたから目先の安定をとる世代でもあると思うんだよね。

夢を追うのは安定させてから…的な。

別の見方をすると、インターネットのおかげで、現実世界を生きつつ、夢を追うことの同時進行が許されるようになったとも言えるのかもしれない。

 

さて。

かく言う私も、進路選びにあたっては絶対専門職になる!と決めていた。

その根拠は…?

過去の自分への贖罪。

この時代の自分は過去の自分への申し訳なさが大きすぎた、そこは反省。

 

まぁ、前記事の流れで、私は結果的に福祉職を選択することになった。

何なら、実は子どもの頃から福祉の仕事に就きたいという思いは強かった。

そんな福祉職の中でも、就くなら絶対障害系の職業一択!で考えていた。

そう、私の障害への関心は、ASD特性によるものそのものなんだよね。

ざ!興味関心の偏り。

鉄オタ属性のASDさんが鉄道会社への就職を目指すのと同じような感覚だと思ってる。

 

結果、私は社会人となってB型作業所の支援員になった。

やりたい仕事に就くことができました。

ここの作業所は作業品目が一種類しかなく、その中で幾つかの工程がある、というものだったから、発達障害のある私にとって支援員としての仕事がしやすかったんだよね。

やるべきこと、どうすればより良くなるかが分かりやすかった。

まぁ、この時の私の行う検品の腕前は、まさに職人芸ですよ。詳しくは書けませんが。

時々自分が福祉の仕事をしてるのか、工場勤務なのか分からなくなるほどだった。

 

また、利用者さんの人数も少なくて、その分職員の人数も少なかったから、人間関係に悩むことも少なかったんだよね。

今思うと、ここは私に適した労働環境だった、というわけ。

だけれど、当時の私にそこまでの事は想像する力は無くて。

適していたという自覚もなくて。

後から振り返って気づくんだよねぇ…

私はB型作業所に適性があるんじゃない。

小規模で単一作業の作業所に適性があるんだよ…

 

よーし2年目も頑張るぞ!

と思っていた矢先、まさかの!!だるま落とし式の人事が発動!!

みとさん、めでたく生活介護へ異動!!

ここでの仕事は複雑だった。

aさんのトイレ誘導に行って、aさんがトイレ入ってる間にbさんの移乗して、終わったらcさんの見守り…

と複雑すぎる業務。

利用者さんの人数もB型の3倍。

職員の数も相応に増えて20人近い。

良くも悪くも御局様に目をつけられて、仕事内容は私にはキツすぎて、(そこに仕事以外の要因も加わって)そして脳と心がへし折れたのです。

医療保護入院になったのは、その直後のことであるのは言うまでもない。

 

うん。同じ福祉でも、こういう仕事は向いてなかった。

 

それ以降の仕事の事は割愛するけれど、

たとえば同じ「福祉」それも「障害福祉」の仕事でも、向いてるジャンルと向いてないジャンルがあるんだよね。

 

要するに、仕事を選ぶにあたって、一見同じ職業に見えても、そこに適性があるかどうかまでは、より詳しい情報を見てみないと分からないんだよね。

 

その後、私は正式に発達障害だと診断され、社会復帰にあたっては、また障害福祉を目指そうかと考えた。

だけど、きっと色んなことを考えすぎてしんどくなってしまうから、今は高齢者中心系のサービスを提供する事業所にいる。

やりたいこと、を再度仕事にしているのが今の私です。

 

適性?正直なところ、微妙です。

とある業務には適性ナシだなって感じるけれど、別の業務は程々にこなせたりする。

アンバランスってやつです。

 

(あと、人間関係が悪すぎるのもしんどさの一つ。)

(とある条件を満たす来年の6月には退職しようかな、とか考える始末)

(それは打算的すぎるし逃げにも該当する気がするから、今は利用者さんのことをしっかり見て働くのみだね)

 

最初、職場にはクローズで就業していたのですが、夏頃に一度爆発した際、障害をオープンにしました。

 

厳しい話ですが、オープンにしたところで、環境って何も変わりません。

というか、変えられないんです、簡単には。

 

それまで積み上げてきた仕事のやり方を、私のために変更しましょうか!

なんて言い出すと、反発が起こるのが職場というもの。

それでも上司は、私のためではなく利用者さんのためでもあるから、と変えようとするけど、変わらない。

 

だから、適さない環境で特性のある人間が仕事をするには、自分を環境に合わせる必要がどうしてもあって、

そうすることでバーンアウトを招くのです。

一般的に、発達障害者のストレス容量は定型の人のそれよりも小さいから、余計に。

正直、今回の職場復帰が上手くいくとも実は思ってないんだよねぇ。

環境は何も変わってない。

だからと言って自分を変えるのにも限度はある。

 

前回の記事とも繋がるけれど

それなら、できることを仕事にした方がストレスは軽減されると思うんだ。

私はあの時、偶然配属された職場が、実質的に単一作業の工場だったから、働きやすくて最低限のストレスで毎日を送ることができた。

(今思うと、それで私は福祉職できるんだ!って勘違いにも繋がってた気はする)

 

再度結論。やりたいこととできることは違う。

 

それは障害者に限らず、健常者にとっても同じことが言えるのかもしれないけれど、

障害のある人にとって、やりたいこととできることとの乖離は、健常者よりも大きいんだろうと思う。

一見すると健常者に見えてしまう発達障害者に対しては、やりたいことととできることの差が

「甘え」「怠け」と評価されることにもなってしまう。

 

そして、発達障害者のできること、は大抵は仕事として成立していなかったり、

驚くほどの低賃金であったり、

パート労働前提で、フルタイムを目指す道すら無かったり、

3交替勤務で24時間体制だったり……

(発達障害者の24時間体制勤務はオススメできない、と主治医が言ってた)

 

できることは仕事にできねぇのな

 

今私は、やりたいことととできること、の狭間で悩んでいる。

何でも器用にこなせる人なら、やりたいことを半ば無理にでもできるようにできるのかもしれない。

あるいは、できてなくても他の要素で補って、同僚たちから白い目で見られずに済むのかもしれない。

そうはいかない私たちは、この社会でどう生きればいいんだ…?

 

前回の記事は社会を障害者に合わせる。

今回は、障害者を社会に合わせる。

というお話でした。

書いてみた結果わかったことだ。

 

発達障害の人にこそ適性があって、きちんとしたお給料の発生する仕事、あればいいのにね。

あ、もちろんブラック企業はダメよ。

発達障害じゃない人が入っても、身体の病気や、精神疾患の患者さんを生み出す事になるから…

 

職場復帰、どうしよう。

周りの目を気にせず働いてごらん、なんて言われてもね…

とりあえず、どうにか来年の6月までは耐えてみよう

そこから先のことはそれから考える!

 

特性、先延ばし発動!

 

障害は環境がつくってるよね

相変わらず文章ぐちゃぐちゃです🤔

 

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私が本気で障害に興味を持ったきっかけには2段階ある。

 

1つ目は、高校生の頃に精神科病院に入院したこと。

初めて統合失調症双極性障害認知症の人たちと間近で接したことだ。

誤解を恐れずに言うと、彼らと触れ合う日々は実にユニークだった。

「マジキチ障害者」「老害」とか世間は勝手なことを言うけれど、生身の彼らはユニークな人間に違いなかった。

 

2つ目は、高校の同級生に知的障害の子がいたこと。

うちの高校は通信制で、リアルにガチに本格的に、名前が書ければ入学できる高校だった。

通常高校入試では、ある程度の学力の目安で進学できる高校が決まってしまい、実は学力に大差の無い生徒たちの集団、卒後の進路も高校によって大体は決まっている、みたいなところがあるが、この高校は違う。

 

東大に進学する子もいれば、卒後すぐ自衛隊に入隊する子もいる。地元の専門学校や大学に進学する子もいるし、地元の有名企業に就職する子もいる。

他の高校で苦しんで精神疾患を抱えていたり、元々の身体の弱さを抱えていたりする子もいて、そんな子たちは進学や就職をせず、自分のオリジナルな道を選んでいくのが当たり前…

 

そんな人種のるつぼ、サラダボウル、みたいな同級生の一員に、知的障害を持つ彼女がいた。

朝、階段で一緒になる時の「おはよう、みとちゃん!」という挨拶

みんなの誕生日を「みとちゃんって誕生日いつ?」と聞いて覚えている可愛らしさ

残念ながら特別支援教育を行う高校ではなかったので、ある程度の習熟度別授業しかない中でも、真剣に授業を聞いている姿

文化祭でピアノ演奏を披露している時のカッコいい彼女……

 

私は、そんな彼女の姿に釘付けになった。

私の忘れ去った純粋さを彼女が教えてくれた。

 

だから許せなかった。

彼女のことをバカにする言動をとる一部の生徒のことが。

 

これも誤解を恐れずに言うと、いわゆるところの「陽キャ」「DQN」「パリピ」とされる人種も、我が校には在籍していた。

他校でトラブルを起こして、退学になった子の受け皿でもあったんだよね、うちの高校。

 

それでも不思議と、いじめというものは存在しなくて、「陽キャ」と「陰キャ」、「DQN」と「ヲタク」が手を取り合う、という少年漫画さながらの人間関係が成立していたのだけど、

陽キャな彼らにとって、知的障害のある彼女(よし、以下aちゃんとしよう)だけは、何だか悪い意味で特別だったらしい。

 

奴らはaちゃんに、とんでもない下品な言葉を黒板に書かせたり、言わせたり、

そうやってaちゃんのことをバカにして遊んでいたのだ。

これは、他ならぬいじめだよね。

 

aちゃんは、自分が書かされる、言わされる言葉の意味を知らなかったけれど、奴らの雰囲気から、良くないこと言葉であると認識することができていた。

だけれども、aちゃんには「やめてほしい」「バカにするな」「私が私の学校生活をして何が悪いんだ」と言い返す術がなかった。

 

それでもaちゃんは元気に登校していたし、いつも通りに挨拶もしてくれた。

正直、学校が彼女の生活のしやすさの為に動いたかどうかは知らない。

私自身もまた、そこまで動くということを知らなかったし、出来なかったからね。

 

それでもこんなことは思った。

彼女のように障害のある人の持つ「普通の人よりすごいところ」をもっと世の中の人に知ってもらえたらいいのに

と。

弱い立場を経験したからこそ、この人たちと共に生きられるんじゃないか?

と。

 

そんな考えを持つ頃には、ちょうど進路を決める時期が差し掛かっていた。

私は昔から志望している福祉業界に入りたくて、だけど一般入試が怖くて

(不登校による学力低下を認めたくない自分がいる頃だったんだよね)

悩みに悩んで、AO入試のある大学で障害児教育を学ぶことにしたんだよね。

親の勧めもあったし、教員免許という国家資格があれば、過去の自分への贖罪になるとも思ったから。

 

ちなみに、大学の入学前後は大好評絶賛不調祭りで、自傷行為への依存が酷い時期だった。

親にコテンパンに言われ、這いずりながら大学に在籍して、2年目の春。

今でも私の原点となる授業に出会ったのよね。

 

その授業の先生は

「手帳取ったら映画とか安くなるんだよ?取らない訳にいかないじゃん」

「使える制度や支援はドンドン使え」

「教師が手を抜けるようにするのが支援だよ」(=障害のある人のできることが増えると、支援の物理的な量が減る)

と、衝撃的な言葉をどんどん放ってくれた。

 

WAISやWISCの概要を教えてくださったのもその先生なのだけど、

それよりも、物の見方としてICFモデルを教わったことが大きかった。

 

ICFの説明は私がすると間違いがあるかもだし、長いから厚労省のを引用っと。

https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002ksqi-att/2r9852000002kswh.pdf

 

画像だけ貼っとこf:id:rito43:20201118095842j:image

まぁ、サッパリ分からんわ。説明もできない。

 

けど、素人な私でも、こういう物の見方は身に付いた。

 

環境が変われば障害は障害じゃなくなる。

 

たとえば、

車椅子ユーザーの人が階段を登れないのは障害だけど、エレベーターがあれば(実際には有効に利用されれば、という条件も加わるけど)スムーズに移動できる、社会参加できるよね

的な。

 

もっと分かりやすく言うと、

停電の夜に視覚障害のある人ほど強い味方はいないだろうし

ガチャガチャうるさい工場で聴覚障害のある人は集中して作業できるだろうし、何なら手話でコミュニケーションを取れば、うるさかろうが伝達ミスが発生しづらい

ということ。

一般に言う障害者の方が強みを持ってる場面って意外とあるのかも。

 

ならば、発達障害者は?

 

余計な情報が遮断された環境があれば、非常に高いパフォーマンスで仕事をできる人がいる。

 

発達障害者にとって、過剰な情報にあふれた環境や、複雑すぎる人間関係が目の前にあることなどは、

視覚障害の人から拡大鏡白杖を奪って路上に放り出す

車椅子ユーザーから車椅子を奪う

のと似たようなもんじゃないの?

 

イヤーマフや、脳や心を落ち着かせるアイテム(ライナスの毛布みたいな?)の使用

休憩時間に1人の時間を保障してもらう(これは定型の人でも当たり前に保障されるべきだよな…)

とかとか、環境が整えば、発達障害はむしろ強みになるんじゃないかな?

 

かのイチロー選手には発達障害だという噂がありますが、仮にそれが真実だとして、

彼のこだわり特性は世界に名を轟かせる超一流野球選手を作り上げましたよね。

 

発達障害の立場から見るユニークさにあふれた世界観は、芸術の世界でも高く評価されますよね。

 

環境に恵まれた、運良く適切な環境を持つことができた人達は成功するのかも知れません。

 

だけど、その他大勢の私たちは…

 

合理的配慮という言葉があります。

内閣府リーフレット、と

https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/pdf/gouriteki_hairyo/print.pdf

 

車椅子ユーザーにとってのエレベーターがその良い例です。

企業には合理的配慮提供の「努力義務」が課せられています。

(たしかアメリカでは義務だったよね)

 

多様性尊重をうたう時代なんだし

テレワークで労働環境を自分で整えやすくなっている時代なんだし

これからますます労働人口は減っていくんだし

 

_人人人人人人人人人人人人人人人_
> 今こそ発達障害の時代だよね <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

 

てか、発達障害の人が働きやすい環境って

定型の人にも働きやすいんじゃない?純粋に

 

あぁ、おなかすいた

個人的今まで住んだ街れびゅー(超絶偏見)

さて。

私はこれまで日本各地、

5箇所の街に住んできました。

 

あんな街もあればこんな街も…

街のことを文章にするの、好きです。

 

ただ、あまりに特徴的な引越し歴なので、

具体的な街の名前は書かないでおきます😇

 

※偏見の塊です。偏見だけで書いてます。偏見です。偏見ですから……😣

 

①生まれた街

大都会のベッドタウン。電車は10分に1本ほど。乗り換えを1度すると大都会に出られる。

ガラの悪いことで有名な街で、とにかくみんなせっかちだし、口も悪い。

この地方で「〇〇出身」と名乗ると少し察される感じ。

あと、空気も悪いので小学生の頃は定期的に光化学スモッグ注意の旗が校庭に掲げられていた思ひ出…( ˘ω˘ )

中学生の頃から徐々に再開発が進み、大型ショッピングモールができたり、近所の駄菓子屋が潰れたり、田んぼを埋め立てて住宅地にされてたり、風景が変わった。

が、しかし、街全体の民度は良くも悪くも変わらない。

また住みたいか?と聞かれたら住みたくない。

けど住んでる人は住み心地抜群だと思う。

…星評価★★★☆☆

 

②地方の大都会

この街はとにかく便利。主要路線なら7分に1度は電車が来る。

電車に乗って大都会中心部に出れば流行りのものからロリィタなお洋服まで何でも揃う。

市としても市民としても自分たちの街にプライドを持っていて、そのプライドの高さにも頷ける素敵な街。

結果、個人的にめちゃくちゃ贔屓してる街。

食べるものも美味しいし、空気も美味しいし、空も凄まじく青い。

ただし厳しい冬が待ち構えているので車の運転には向かないし、運転マナーも悪い。

車の運転をしなくて良いという前提があるのであれば、ぜひもう一度住みたい。

なお、みとはこの街の方言をネイティブレベルで話せるので、今すぐ住んでも即座に馴染めます。

…星評価★★★★★

 

③オシャレさだけが売りの街

某大都会2箇所のベッドタウン。いずれの大都会へも電車で30分ほど。なお、電車は10分に一本来る。なお、電車内では基本的に座れないため、行き帰りでグッタリ。

とにかくオシャレ。街の名前だけを知ってる人、知人を尋ねるなどして訪れた経験のある人に

「〇〇に住んでました」と伝えると、大抵は目をキラキラさせてくださる。

が、しかし。住んでみるといかに不便か…

坂が多いのに道が狭いし駐車場は少ないし、そのくせ渋滞が多いので、車移動には向かない。

欲しいものがある時も、市内には手頃な店がなく、車で渋滞に巻き込まれながら出かけるか、もしくは先述の電車で大都会に出るか、になる。

しまむら無いんだぜ…イオンモール無いんだぜ…ろくなデパートも無いんだぜ…

あ、ユニクロはあるわ😶

更に、物価の高いスーパーが多く、平均点価格帯なスーパーはそこそこ遠いので、日日の買い物にも不向き。

結果、〇〇に住んでいる、というブランド価値だけで住む街だと思っている。

これぞまさに偏見。

この街でろくな事が無かったからって、ここまで偏見の目で見てしまう私。

…星評価★★☆☆☆

 

④田んぼと畑だけの街

ここは…えぇ。はい。

大都会へは電車で1時間。

車でも高速利用で1時間ちょっと(ただし着いた先に駐車場が見つかるかは別)

もちろん電車は30分に一本。いや、これでも来る方だとは知ってます。しかも座れますし。

あ、帰りは座れない可能性が高いです。

日常生活はとにかく車ありき。車ありきなのに不便。

最寄りのコンビニまで車で15分。

最寄りのスーパーまで車で30分。

最寄りの駅は車で7分(歩くと1時間)(自転車で30分)

最寄りの郵便局…は、歩けるか。20分くらい。

買い物で忘れ物があると大変です。

すぐ必要な物なら、再度往復1時間かけて買いに行きます。

もちろん家の周りは田畑と山、ポツポツと散在する民家しかありません。

ただし、大型イオンモールまでも車で45分ほどで行けるうえ、道のりがクソ田舎なので渋滞するはずもなく、そこだけはメリットなのかもしれません。

もう一度住む…?絶対やだ。

…星評価☆☆☆☆☆

 

⑤今住んでる街

大都会の恩恵を受けたい。受けてる。なのに地味。存在感が皆無。大都会からそこまで離れてないハズなのに何故かビックリするほど方言が訛っている。

それが私が住む街。

大都会へは電車で1時間~1時間半(あれ?不便じゃね?)

電車は20分に一本。基本的に座れますが、帰りは座れません。

そんな時には特急券を予約しましょう←

なお、車で大都会に行く際も大体1時間(ただし駐車場ry)

日常生活を送る分には、車さえあればこんなに便利な街はありません。道も凍りません。

ニトリしまむらイオンモールユニクロ、GU、ホームセンター…何でもあります。

ただし、大手飲食チェーンにはハブられる傾向にあり、UberEATSの普及も遅れています。

何でもかんでも1年遅れらしいよ、地元民曰く。

ただ、最先端の流行に触れたい時やロリィタなお洋服で目の保養をしたい時などは、この街ではまかないきれません。

大人しく大都会へ行くことになります。

あと、市民のみなさん、方言がキツくてその方言がまた…口が悪いんだよねぇー( ー̀∀ー́ )

私個人も少しずつ方言が移ってきていて、だけど他の地域の方言も完全には抜けてなくて…

もはやどこの人間か分かりません。

この地域は近年急速に人口が減少してきているそうで、個人的にはコロナによるテレワークの一般化が進み、帰郷してくれる若者が増えることを願っています。

何かいい街なんだよね、ここ。

色んな街に住んでみて、②の街には及ぶはずがないにせよ、住み心地が良い。

たぶん、しばらくはこの街にご厄介になるのだと思います。

テレワークできる仕事じゃないし、転勤ないし、コロナ禍の影響で簡単には引っ越せないし。

…星評価★★★★☆

 

こんなのネットに載せていいの、私?

これ、一体何文字あるの?

こわいー(´・ω・`)

 

発達障害とわかるまで、そして

みとと申します。

発達障害です。

この記事では発達障害と診断されるまでのことを書こうかな。

 

それは成人後のある日のこと

数ヶ月程前から続いていた精神的不調が爆発して、暴れ回った挙げ句、医療保護入院になったのが、そもそものきっかけ。

無事、保護室へご案内の運び…

(ちなみに保護室にいる間に世間では関西空港の連絡橋が落ち、北海道では大きな地震があり…脱出後はまさに浦島太郎状態だったよね)

 

保護室脱出後。

心理検査しますね」と医師に言われ

言われるがままにWAISを受け

検査結果や諸々の経歴や症状を鑑みて

「典型的な発達障害だね」

と言われたという異色?の経歴。

 

学生時代から障害児教育や障害者福祉のことを学んでいて

WAISとは何を調べる検査であるかも知っていて

何なら内容も具体的に見たことがあって

自分は言語優位である自覚はあったんだよな

ただ、乳幼児検診はパスしてきたこともあり

診断がつくほどではない

それこそ「スペクトラム」の定型寄りに位置すると思っていたんだ

 

話は戻って検査の時のこと

心理士さんと会って

WAISのごつい箱を見た瞬間大体のことを察した

(あー、発達障害疑われてるんか)

(WAISやんけ!ワクワクする!)

 

いざ検査を終えて結果を待つ間には

「VIQ110のPIQ90くらいかなー🙄」

なんて思っていた次第

 

まぁ、結果は予想を裏切り

VIQ119PIQ74

さらには言語理解124知覚統合68

(作動記憶と処理速度は90ほど)

という凸凹にも程があるだろっちゅーものだったんだけども

 

発達障害ですね、と言われ

診断書にも「自閉症スペクトラム障害」とハッキリと書かれた時

よく言われる事だけど、意外にショックは無かった

むしろ何なら納得したし

当時の日記を見ると草が生えまくってるくらいだ

 

そんなこんなでWAISを終えて

退院して色々ありまくって時は流れ…

 

手帳を取ったのは昨年のこと

驚いたのは診断書の料金だ

1万て!!?1ま…1まんえん!!!???

不思議だよなぁ、と思いました、まる

(ここの考えも書くと長くなりそう)

 

手帳を取る時、今度こそ自分が

「障害者」なんだと自覚したと思う。

 

障害者だと自覚したことで

これまでの生きづらさ、今まさに抱える生きづらさに対して、いくらか肯定的な見方ができるようになった気がする。

 

「障害者だから仕方ないじゃん」

というのではなく

「私の持つ生きづらさには障害という名前がついてる」

「障害ゆえの難しさに対して手帳が交付されている」

と自分の中での落としどころができた。

 

そしてもう一点

手帳による割引サービスの存在は、なかなかに大きい

 

手帳のおかげで半額だから行ってみよう

という、ちょっと大丈夫なの?というモチベーションで

民間の動物園やイルミネーションに足を運んでみて、

「経験」する機会を増やすことができた。

 

発達障害とわかって、私にとってプラスになったことはこんな感じ。

 

生きづらさに名前がつく

それは、それこそ言語優位な私にとって

もっとも良かったことなのかもね。

 

さ。食器洗って、再度買い物に出撃準備するとするか。