社会的弱者への批判ってどうなんだろね
最近、立て続けに死の淵で闘い献血を必要とする病気の方、車椅子ユーザーの方への批判…中には誹謗中傷と取れるものを見かけてきた。
この社会はほんとに、マジョリティ向けに作られているなぁって、そういうのを見る度に思います。
上で挙げたおふたりのマイノリティさ、というのは大多数からすると非常にイメージのつきにくいものなのかも知れません。
発信ツールとしてSNSを用いていることで、言葉の意味が上手く伝わっていないのかもしれません。
文字情報で伝わる情報量は直接対話の10%ほどであるという説もあるくらいですから。
そこに想像しづらい生きづらさ、というものが乗っかってくると、SNSで発信する文字情報で伝わる彼らの気持ちは殆ど伝わっていないケースもあるのかもな、とは思います。
たとえば、ここに分かりやすいマイノリティの例を挙げてみましょう。
左利き、です。
私は左利きの人と共に生きていますが、彼らにとってこの社会は不便な点がものすごく多いそうです。
例えば仕事で用いる機械の操作パネルは右側が右側にあることで、微妙に作業効率が落ちてしまう。
駅の自動改札機も左利きの人にとって使いづらいことは一度は当事者から耳にしたことがあるかもしれません。
他にも左利きで不利になることを挙げると、私の身近にいる左利き当事者は講演会レベルの熱弁をしてくれる事かと思います。
(もちろん野球をはじめとしたスポーツなどで、左利きであることが寧ろ有利になることもあるんですよね)
左利きの人が社会に持つ不満と
献血を求める人、車椅子ユーザーの人が社会に持つ不満って実は本質的には同じなのかな、と思ったり…します。
人は、自分の想像しづらい立場の人の生きづらさを想像することが難しいのは仕方の無いことです。
まして、我が国では障害や病気のある人との交流の機会はそう多くありませんから、想像しづらいことは分かるんです。
ただ、イメージを膨らませることは必要なのかな、と。
献血を必要とする方が炎上した原因は、彼の意図する文脈的なニュアンス(文章冒頭の強烈なつかみ、インパクト)が捉え違いされたものだったと私は思っています。
車椅子ユーザーの方については、その方のバックフィールドがツイート単体では分かりづらかったこと、でしょうか。
(いずれについても深く追求するのは避けておきます…勇気がない…こんな記事きっと誰も見てないけど)
マイノリティとされる人達と、マジョリティの人達、いずれもが生きやすい社会って、どうすれば築けるのでしょうね。
インクルーシブ教育?ノーマライゼーション?
一応国ではどちらも掲げていますが、実際は行き届かない部分が多いですよね。
自分のことを例に挙げて申し訳ありませんが、発達障害があることを仕事先に伝えることが不利になってしまう段階で、すでに…です。
それこそ、誤解を恐れない表現をすると、発達障害は使いようだと私は思っています。
多くの発達障害者は、例えば芸術家として華やかに生きる発達障害者のように、特別秀でてそれでご飯が食べられる才能がある、という訳ではありませんが、特性に応じた環境があれば、ものすごく使えるんですよね。
弱者が弱者のまま置いてきぼりになるのが良くないんですよ、結局は。
健常者が障害者に歩み寄ることを求めるなら、逆もまた然り。
お互いにお互いの立場を想像すれば、少しは変わってくると思います。
そして、想像するための「道具」「引き出し」を増やすために、彼らの強烈な批判だけじゃなくて、バックにある日常にまで目を向けてみませんか。
文字情報で伝わるものに限界があるのならば、YouTubeといった方法が、今の社会にはありますから。
…もっとも、某丸一日テレビのような感動ポルノと一部で呼称されるものについては論点がズレてると思うので、例外ですけれど…
(弱者なのに頑張ってる、すごい!じゃなくて、弱者の日常の生きづらさを知る機会を増やしたい)
(それこそ、左利きの人が懸命に右利き用のハサミで頑張ってる映像なんて見たいかな?)
視点を変えてみると、
いつの時代も、何かを変えようとする人は批判されてしまうものなのかもしれませんね。
海外で人種差別撤廃を訴える運動が命懸けになりかねないものになっているように。
ある意味、ネットでネチネチ批判合戦!みたいになっている方が余程陰湿だとも思いますが。
死人を出しますよ、誹謗中傷。というか、出してますよね、すでに。
特に計画立ても推敲もしていない文章なので、結局何が言いたいのかよくわかりませんが…
とりあえず私は静かにこの文章をアップします。
全ての人がお互いを尊重しあうことのできる社会の構築を願います。